2012/01/25

駒の声を聴け

「猫を抱いて象と泳ぐ」小川洋子

小川作品を読むのは3作目でしょうか。登場人物はいつだって声の小さいひと。隅っこにいるようなひと。今回も耳を澄ましてその小さな声達をききとっていくような小説でした。

主人公の少年(のちにリトル・アリョーヒンと呼ばれます)は生まれたとき唇がぴっとりとくっついていて、それ故か口数が少ない。
友達も実在する人間ではなくてかつてデパートの屋上にいた象とか、家と家の隙間に入り込んででられなくなった女の子ミイラとか、自分の心の中にしか存在しないようなものたち。

そんな少年がバス会社の独身寮にある古いバスのなかに住んでいるおじさん「マスター」にチェスを教わるお話。

言葉で語れることよりもチェスを指す最中にあふれるメッセージを大切にするマスターと少年の、チェスに敬意を払う姿勢が羨ましいなあと思いました。強い手ではなくて善い手を選ぶ、という感覚、よくわからないけど羽生さんも将棋を指すときに常に最善を考えるというから同じ事なのだろうか。もしかしたら羽生さんにとっての最善は最強ということかもしれないけれど。

リトル・アリョーヒンと指すことになる人にも同じように美しいチェスの試合をやりたがる人がいるんですが、この「わかるひとだけの集まり」な空間は純度がたかすぎて、「う、いかにも小説……」と思ってしまうので、私が惹かれたのは主人公含めた純度の高い人間が共有している「チェスマジやばい」を理解できない、あるいはしない人たちでした。

海底チェス倶楽部で泥水しながらもチェスに勝ち、リトル・アリョーヒンの人形をたたき割った男とか、最後に少年が訪れる施設でもうチェスの駒の動かし方をきちんと覚えていない老人とか、あとはかつて少年と美しい試合をいくつも展開させたはずの、ぼけてしまった老婆令嬢とか。

リトル・アリョーヒンは駒に身をゆだねながらチェスを指すことであらゆる場所へ移動できるというくらい、チェスを使ってあらゆる表現が出来る詩人です。

でもその声は届かない場合がほとんどなのだということ。彼らが喋る声はあまりにも小さすぎて、外部の人間には決して届かない。その人達がチェスを知らないというだけで声はなかったことにされてしまう。

それでも少年はそれをありのまま受け止めて、無理に叫ぶことはしない。自分で叫ぶよりもチェスの駒の動きにあわせて、その世界にたゆたっているほうがもっと素敵だからだと思います。

ひとつひとつの駒は限られた動きしかできないけど、すべての駒がうみだす指し方はとてつもなく多い。決まったルールにのっとって無限の可能性をつかむということ。
最近千野帽子さんが
『言葉ってものが自分のものではなく他人のものを借りて使ってるんだ、ということがわかってる人は、ひとりひとり個性的で美しい。  「自分にはかけがえのない個性がある」と思ってる人は、全員同じ顔してます。区別がつきません。』
(ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120116/226195/?P=1)
といっていて、その意味を考えているんだけど、リトル・アリョーヒンは決められたルールに正しく従うことで、美しい世界を旅できていたんだろうなと思います。

この言葉についてはもすこし深く考察したいところ。

それにしてもリトル・アリョーヒンのよき相手だった老婆令嬢が最後にアルツハイマーのような状態になって再び登場したのはよかった。二人の思い出がとたんに儚くてか弱くて綺麗になった瞬間でしたね。憎いね。


途中で文体に飽きたといったわりにたくさん思うところあったのでやっぱり素敵な小説でした(o´∀`o)

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